『アラン・ケイ』を読んだ。素晴らしく実りがあった。

パーソナルコンピューティングやコンピュータリテラシーについて、私が今ごろ 気づいてぼんやりと考えているようなことは、この巨人が四半世紀前に考え尽く していた。

新品では手に入りにくいかもしれないけれど、大きめの図書館にはあるはず。

「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」(p.88):

コンピュータ・リタラシーのもたらす変化は、読み書きの能力と同じくらい深 甚なものになるかもしれないが、この変化は大部分の人にとっては認識しづら く、しかも彼らが理想とする方向にいくとはかぎらない。たとえば、パーソナ ル・コンピュータには教育革命を起こす潜在能力があるというだけの理由で、 実際にそうなると予測したり、期待したりするべきではない。電話、映画、ラ ジオ、テレビといった、今世紀に生まれたコミュニケーション・メディアは、 すべて同様の予測を引き起こしたが、どれも現実のものにはならなかった。世 界中に数えきれないほど存在する教育のない人たちは、その気があれば、何世 紀にもわたって文化を蓄積してきた公共図書館を利用できるのに、そうしよう とはしない。だが、ひとたび個人あるいは社会が、教育こそすべてだと考えれ ば、書物、そしてパーソナル・コンピュータは、もっとも重要な知識の伝達手 段となるだろう。

「コンピュータ・ソフトウェア」(pp.119-120):

[…] 読み書きを修得するのはきわめて困難で、長い年月を要するにもかかわ らず、われわれは、こうしたことすべてを非常に重要なことと考えている。わ れわれの社会は、この種のリタラシーは特権ではなく、当然の権利であり、任 意ではなく、義務であると宣言している。

では、コンピュータ・リタラシーはどうなのだろうか? コンピュータ・リタ ラシーというのは、ワードプロセッサーや、スプレッドシートや、最新のユー ザインターフェイスの操作を覚えることではない。これはいずれも、ペンと紙 のたぐいにすぎない。プログラミングを学ぶことですらも、コンピュータ・リ タラシーではない。プログラミングなど、文章を書くかわりに、文法を学ぶの と同じようなうっとうしい方法で、いつでも学ぶことができる。

コンピュータ・リタラシーというのは、コンピュータでの読み書きに相当する 能力を流暢なものにし、そして、楽しいものできるほど(原文ママ)、十分に 深くコンピュータと接することをいう。あらゆる芸術と同様、「素材との恋愛」 は充分に深めなくてはいけない。芸術や学問の生涯にわたる修得が、個人や社 会の成長のスプリングボードになると考えるなら、コンピュータをわれわれの 生活の一部にするために、相応の努力が必要ではないだろうか。